リーバイス社もう一つのサンアントニオ工場(551Ⅿ・South Zarzamora Street Factory)
2003年の年末、リーバイス社は米国内に残っていた自社の最後の2工場を閉鎖しました。
閉鎖された「554M」縫製工場と「614F」仕上工場があったのは、テキサス州のサンアントニオ。
このサンアントニオの地には、1990年に閉鎖された別のリーバイスの縫製工場がありました。
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1923年、ベビー服や子供服を製造する Juvenile Manufacturing Company (ジュブナイル・マニュファクチャリング社)が、サンアントニオの Pecan Street(ピーカン通り)に工場を開設。
1930年代、ジュブナイル社は男児と男性用の衣類の製造を開始し、社名を Santone Industries (サントーン・インダストリーズ)に変更。
1960年代、サントーン社は サンアントニオの South Zarzamora Street (南ザルザモラ通り)に工場を開設。
1970年代、サントーン社とリーバイス社は、この工場でリーバイスのジャケットを製造する契約を締結。
1981年までに、リーバイス社はサントーン社を買収。
-1980年代初頭には、リーバイス社はサンアントニオだけで5,000人以上の労働者を雇用、サンアントニオは米国最大のリーバイス社の従業員数を誇り、サウス・ザルザモラ工場は生産量と利益の高さから「奇跡の」工場と呼ばれていた-
1989年、工場の主力商品をドッカーズパンツの生産に切替。
-1980年代に、リーバイス社は事業の半分を海外50か国に移した。ザルザモラ工場の女性に支払っていた時給6ドルは、発展途上国の労働者に丸一日支払うのに十分だった-
1990年1月、リーバイス社はザルザモラ工場の閉鎖を決定。
-即座に1150人の従業員(92%はラテン系)が解雇されました。なかには24時間前に通知された人もいました-
1990年2月、Fuerza Unida (リーバイ・ストラウス社による米国内の生産工場の閉鎖に抗議し、長期にわたる一連の抗議活動を主導してきたテキサス州サンアントニオを拠点とする労働者運動団体)が誕生しました。
Fuerza Unida サイトには下記の文言が並びます。
1990年、リーバイ・ストラウスはサンアントニオにある3つの製造工場のうち1つを閉鎖しました。その結果、多くのサウスサイド住民(主にメキシコ人とメキシコ系アメリカ人女性)が失業し、突然の解雇に対する補償も受けられなくなりました。支援の不足に憤慨したビオラ・カサレス(Fuerza Unida創設者)は、ペトラ・マタ(事務局長)をはじめとする数百人の女性たちと団結し、正当な解雇手当を求めて闘いました。こうしてFuerza Unidaが誕生しました。これらの力強い女性たちは、1990年代初頭から2000年代半ばにかけて、数々のボイコット、ハンガーストライキ、抗議活動を通じて、リーバイスによるサンアントニオ工場閉鎖の決定に抗議しました。(https://www.fuerzaunida.org/)
1994年のNAFTA(北米自由貿易協定)の発効により、労働のグローバル化はより促進されることになります。
Fuerza Unidaが主導した抗議とボイコットは、1990年のザルザモラ工場でのレイオフの後も継続されました。
1980年代に事業の半分を海外50か国に移していたリーバイス社は、ザルザモラ工場の閉鎖後もさらなるアウトソーシングにより国内工場を閉鎖し、レイオフが行われました。
2003年、米国内で最後まで残った(残した)サンアントニオの2工場が閉鎖されました。
2003年以降、”真の意味での”MADE IN U.S.A.の「501」は発売されていません。
2025年、挑発的な保護貿易政策を掲げる第二次トランプ政権が発足しました。
それでも、海外に移ったリーバイス社の自社工場は米国内には二度と戻っては来ないでしょう。